報道されないダマスカスの真実(国枝昌樹 元シリア駐在大使)

2017年3月1日

わたしは今年の初めにダマスカスに行ってきた。2011年3月に民衆蜂起が起きて以来12年2月、14年4月に同地に行っているので、今回は3回目、2年9か月ぶりの再訪だった。短い滞在期間中に十数人の人々と会って話をし、町の人々が通うレストランで食べ、町で買い物をした。その時の見聞を報告したい。

14年の訪問の時には反体制派武装グループが放つ迫撃砲弾が5分ごとに町の遠近(おちこち)で炸裂する音が響き、夜10時になるとダマスカスの町の背後に屹立するカシユン山の上から政府軍が反体制派の占拠する地区に向けて大砲をぶっ放つ轟音が真っ暗な空をつん裂いて、町には緊張した雰囲気が張り詰めていた。町の人々はいつ砲弾が頭上に落ちてきてもそれは運命といって受け入れる覚悟で生活していた。

今回、状況が一変していた。迫撃砲弾の音は消えて、ダマスカスの漆黒の虚空に轟音をとどろかせたカシユン山からの大砲の発射音もない。人々の表情には余裕があった。代わりに、大小さまざまの簡易発電機が町中至る所で騒音を張り上げていた。

自動車は市民の足なので、ダマスカス市内には14年にもたくさんの車が粗悪なガソリンで異臭を振りまきながら走っていたが、今ではさらに増えた自動車と簡易発電機の油煙でダマスカス市内の空気は淀(よど)んでいた。ちなみに、街を走る車は見事におんぼろ車ばかり。皆部品を何とか入手してはだましだまし運転している。

ダマスカス旧市街の人出は確実に増えていた。戦争が始まる前と同じレベルまで回復とまで言っては言い過ぎだろうが、それでも、ハミディーヤ市場の人出は相当なものだし、ウマイヤド・モスク前の人ごみも想像以上だった。店の品そろえも往年を彷彿とさせる。ダマスカス名物のアイスクリーム屋も繁盛している。でも、矢張り薄暗い。

ホテル近くで市民が集う青果物市場やショッピング・アーケードを見てみた。最も上質だというピスターチオが1キロ8700シリア・ポンドだった。ドルに換算すれば17ドル程度だ。戦争前の値段に比較するとシリア貨では8倍以上になっているが、ドル貨では50%高に過ぎない。最上級のピスターチオであるが、戦前のものと比べるとピスターチオそのものの品質は劣り、塩で炒っても、以前ほどの手間暇がかかっていない。そこに戦争が反映している。他方、店頭に並ぶ野菜などの生鮮食料品の値上がりは5、6倍程度であった。地元のレストランで何回か食事したが、満腹になるほど食べても一人当たり10ドルもしない。

価格に注目したい。シリア貨では8倍になっていても、ドル貨換算では5割高にとどまっている。ピスターチオに限らず、店頭に並んでいる売り物はシリア貨ではことごとく数倍になっているが、ドル貨での動きは少ない。これは現在のシリア経済が国際経済とほぼ完全に切り離されていることを意味する。
 
シリア貨での高騰ぶりは甚だしいのだが、この間に公務員の平均給料はほぼ2倍に増えた。親しくしている中堅公務員の独身女性は、妹も働いて一緒に病身の両親を養っているが、余裕はないけれども何とか月給で生活できているという。友人のダマスカス大学教授は、戦争前は月給が1000ドル程だったが、現在は300ドルまで下がったと嘆いているけれど、それはドル換算であって、シリア貨では彼の月給は3倍になっている。つまり、シリア貨での購買力換算で見ればインフレ率は2.5倍から5倍である。大学教授で見れば1.5倍から3倍程度である。

わたしは第2次大戦終了の翌年に生まれて、父はわたしが生まれる前に死んだので寡婦の母がその細腕で一家7人の家庭を何とかやりくりしながら昭和20年代の大変苦しい時期を必死に過ごした。その時代のインフレはダマスカスのインフレよりも酷かった。年端も行かないわたしは母を援けて薪を割り、かまどにくべてお米を焚き、味噌汁も作った。練炭火鉢も熾した。ダマスカスの現状はわたしの人生初期の思い出につながる。

500万人近くが国外に避難民として逃れ、国内にとどまる1700万人余りの人口の内600万人ほどが家屋を失い避難生活を余儀なくされており、国土の3分の2は戦闘地域になっている現在のシリアで、これだけの経済が動いていることは一種の驚きである。さらに、たとえ「イスラム国」が支配しているラッカであっても、シリア政府機関であったところに働き続ける旧公務員には、今日でも政府は給料を支払っていると聞く。また、海外での外交活動に必要な大使館を、人員規模は縮小しながらも維持し続け、政府給付留学生の資金も支払い続けている。

勿論、これには700億ドルに上るロシアとイランからの借款などの資金協力が寄与しているのは間違いない。「それにしても」と親しいシリア人ジャーナリストが言う。「国としての経済が機能し続けていることが不思議だ」。わたしにも不思議だ。

経済が機能しているということは国の行政が機能していることだ。これは注目すべき事柄だと思う。民衆蜂起前に5年間シリア政府経済担当副首相を務め、現在国連ESCWA(西アジア経済社会委員会)の副事務局長のアブドゥッラ・ダルダリが当時わたしに語った言葉で、妙に頭にこびりついている一言がある。「シリアは小国だ。だが、並みの小国ではない。大きな抵抗力がある」。なるほどそういうことだったのか。

シリアは破綻国家だ、中央政府の行政権は最早(もはや)機能していないなどと書いてはばからない記事が国際社会で幅を利かせているが、どこを見てそのような報道をしているのだろうと不思議に思う。わたしは長かった外国生活の半分以上をいわゆる開発途上の諸国で生活したが、シリアよりももっと事情が悪い国はたくさんある。でも、そんな国々を誰も破綻国家だとは呼ばない。

最後に、ちょっと気になったことを書いて終わりたい。
今から6、70年前の日本の戦後時代の記憶と関係するのだが、当時の日本では社会のいたる所でいわゆる傷痍軍人の姿を見た。立派な人物が白衣を着て駅の前でアコーデオンを弾いているのを見るごとに、幼かったわたしの心は痛んだ。ところが、ダマスカスではそんな人たちを一切見かけなかったのだ。どうしてなのだろう。いずれ書く予定の折田魏朗先生が生前に語ってくださった第4次中東戦争の時の思い出話には街中にあふれる傷痍軍人の話があったので、それだけに違和感を持った。また、ダマスカスでは少なくない数の20歳前後から30歳ほどの青年たちが日中から街路で明るく振る舞っていた。いずれも生活臭の乏しい若者たちだったのが気になった。多くのシリア人たちは日中は仕事をして懸命に生きているというのに。近郊のバラダ渓谷ではその頃政府軍と反体制派武装組織との間で激戦が戦わされていた。その渓谷にはダマスカスの水源があるので、当時市内の水道は断水し市民生活が困難に直面していると伝えられていた。だから、わたしは2リットル入りペットボトルを20本持ってダマスカスに入り、知人たちに配ろうとした。だが、聞けば完全に断水しているわけではなく、飲料水は確保できている、ただ洗濯水や風呂用の水の確保に苦労しているというのだ。外国で報道される情報と現実との乖離にガックリした。


国枝昌樹 元シリア駐在大使 (投稿者)
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・2006年から2010年シリア特命全権大使。
 著書: シリア アサド政権の40年史(平凡社新書)、報道されない中東の真実、イスラム国の正体、シリアの真実、「イスラム国」最終戦争(以上朝日出版)など多数。

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